「生き甲斐」という言葉は、英語に訳せない。
「reason for being」とも「purpose in life」とも違う。生きることに甲斐がある——その感覚は、もっと根に近い場所にある。朝目覚めたとき、今日もここに在ることの重さと軽さが同時にある感覚、とでも言おうか。
4つの円の交差点
2010年代、この概念が西洋のコーチングやキャリア論の世界で突然注目を集めた。きっかけの一つは、「イキガイ・ダイアグラム」の拡散だ。
4つの円が重なる図——「好きなこと」「得意なこと」「世界が必要としていること」「対価を得られること」。これらすべての交差点が「IKIGAI(生き甲斐)」だとされる。
ただし、これには注意が要る。このダイアグラムは西洋で生まれた図式であり、日本の伝統的な「生き甲斐」概念とは厳密には異なる。日本語の生き甲斐は、もっと日常的で、謙虚な概念だ。朝の一杯の茶が生き甲斐だという人もいる。孫の笑顔が生き甲斐だという人もいる。
それでも——4つの円の図は、キャリアを考えるときに鋭い問いを投げかける。
「意味」をどこに置くか
ポジティブ心理学の父、マーティン・セリグマンはウェルビーイングの要素としてPERMAモデルを提唱した。ポジティブ感情、エンゲージメント、関係性、意味、達成——この「意味(Meaning)」の部分に、イキガイが接続する。
心理学者エイミー・ウルズニアウスキーの研究では、人の労働への向き合い方を「仕事(Job)」「キャリア(Career)」「天職(Calling)」の3タイプに分類した。同じ仕事をしていても、「給与のための作業」と見るか「人生の意味」と見るかで、満足度も生産性も大きく変わる。
イキガイの実践は、「仕事」を「天職」に近づけていくための地図になる。
ウェルビーイング経営との接続
近年、企業経営の文脈で「ウェルビーイング」が注目されている。単に従業員の健康を守るというレベルを超え、「生きがいのある仕事を提供する」という経営哲学へと発展している。
日本では、岡山大学の津田彰らが「生き甲斐」を測定する指標の研究を進めてきた。主観的なウェルビーイングの中心に「生き甲斐感」があり、それが身体的健康とも相関することが示されている。
グローバルには、Googleのプロジェクト・アリストテレスが「心理的安全性」の重要性を明らかにした。自分の仕事が意味を持つと感じられる環境——それは、イキガイが根を張る土壌だ。
「得意」と「好き」はずれる
4つの円を眺めていると、一つの緊張に気づく。
「好きなこと」と「得意なこと」は、しばしば一致しない。
得意なことで稼ぐことはできる。しかし、得意なのに好きではないことを続けると、心が空洞になっていく。逆に、好きだが得意でないことに固執すると、「世界が必要としていること」との接続を見失う。
キャリアデザインの本質的な問いは、「どの円を大きくするか」ではなく、「どの円をどの方向に動かすか」にある。得意なことを通じて好きなものを見つける人もいる。好きなことを続けることで、得意になっていく人もいる。
円は固定されていない。
「答え」を求めない姿勢
4つの交差点に居続けることがイキガイなら——それはある種の完成だ。しかし人生は、完成より探求のプロセスの中にある。
沖縄の百歳以上の長寿者たちに「生き甲斐は何ですか」と聞くと、明確な答えを返す人は少ない。畑を耕すこと、孫に会いに行くこと、友人に茶を入れること——日常の断片の中に、生き甲斐は散らばっている。
それは4つの円の交点を探す旅ではなく、今ここにある小さな甲斐に気づく、静かな実践かもしれない。
考えるための問い
- あなたの「好き」と「得意」は一致しているか——ズレているとしたら、なぜか
- 「世界が必要としていること」をあなたはどこで感じているか
- 「生き甲斐がある状態」と「忙しい状態」はどう違うか
- 朝目覚めたとき、今日を生きようと思う理由はどこにあるか
- あなたの経営する(または属する)組織は、人々の生き甲斐を育てているか
参考文献
- 泉谷閑示 著『IKIGAI——日本人だけが知る「生き甲斐」の本質』アスコム、2020年(ISBN: 978-4-86621-359-0)
- 前野隆司 著『ウェルビーイング・マネジメント』KADOKAWA、2022年(ISBN: 978-4-04-109150-0)
- Martin E. P. Seligman 著、宇野カオリ訳『ポジティブ心理学の挑戦——“幸福”から”持続的幸福”へ』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年(ISBN: 978-4-7993-1361-4)
- Amy Wrzesniewski et al., “Jobs, Careers, and Callings: People’s Relations to Their Work,” Journal of Research in Personality, 31(1), 1997, pp. 21–33
- Re:Work(Google), Project Aristotle: “Guide: Understand team effectiveness,” 2016年