知識は、誰のものか。
これは木の皮の話だ。
そして、その木の皮をめぐって、五世紀にわたり繰り返された「発見と搾取と再発見」の螺旋の話でもある。
問いから始めよう。ある民族が何百年もかけて積み上げた経験的な知恵を、別の文明が「発見」したとき——それを発見と呼ぶのは、正しいのか。
答えは、ない。けれど問いは残る。
私がこの問いに最初に引きつけられたのは、新規事業の支援をしていたある夜だった。ある企業の担当者が「自分たちがゼロから発見した市場だ」と言い切った後、遡れば地域の職人が数十年前から同じ価値を提供していたことが分かった。「発見」は、知らないだけで「再発見」だったのかもしれない。キナ樹皮の物語は、その問いを五百年のスケールで問い直す。
17世紀、アンデスの森で
マラリアは古い病だ。
古代エジプトのパピルスにも、ヒポクラテスの著作にも、周期的に繰り返す高熱の記録がある。蚊が媒介する原虫(Plasmodium 属)が引き起こすこの感染症は、人類史の長い時間をかけて、膨大な命を奪い続けた。
17世紀以前のヨーロッパに、有効な治療手段はなかった。
一方、南米アンデスの先住民——ケチュア族やその周辺の民族——は、キナの木(Cinchona 属)の樹皮を発熱治療に用いていた。どのような形で最初に発見されたのか、正確な記録は残っていない。だが確かなのは、彼らの経験的な知識のなかに、その答えがすでにあった、ということだ。
1638年または1630年代(史料によって諸説ある)、スペイン植民地時代のペルーで、この樹皮がヨーロッパ人に伝わる機会が生まれた。スペイン人総督の妻アナ・デ・ボルボン(またはその侍医)がマラリアに罹患したとき、現地の治療法として樹皮が処方されたとされる。伝説的に語られてきたこの逸話の細部は後世の誇張を含む可能性が高いが、17世紀中頃にはキナ樹皮がヨーロッパへ流通し始めたことは史実だ。
「ペルーの樹皮」「イエズス会の粉末(Jesuit’s Bark)」——そう呼ばれたキナ樹皮は、当初、ローマのイエズス会士たちが持ち帰り、ヨーロッパ全土に広めた。プロテスタント側の宗教的反感から、イギリスなどでは受け入れが遅れたという歴史的経緯もある。薬は政治の外にいられない。
効くのかどうか、なぜ効くのかを誰も説明できないまま、樹皮は使われた。
1820年、パリの実験室で
説明は、二百年近くかかった。
1820年、パリ。二人のフランス人化学者——ピエール・ジョゼフ・ペルティエ(Pierre Joseph Pelletier)とジョゼフ・ビアネメ・カヴァントゥ(Joseph Bienaimé Caventou)——が、キナ樹皮から活性成分の単離に成功した。
彼らはその物質を「キニーネ(quinine)」と命名した。スペイン語の「キナ(quina)」に由来する名前だ。キナ、という名自体もケチュア語の「木の皮」を意味する語から来ているとされる。
単離は、それ自体が発見だ。
これ以前のキナ樹皮の使用は「経験的な事実」に留まっていた。ペルティエとカヴァントゥの仕事によって、「この成分がマラリア原虫に作用する」という化学的な同定が可能になった。製造が標準化され、用量の制御が可能になった。医薬品としての「再現性」が生まれた。
先住民の経験知が、化学の言語に翻訳された瞬間だった。
翻訳は、何かを失うか。
あるいは翻訳されることで、何かが解放されるのか。
帝国主義とキニーネ
キニーネの歴史は、同時に植民地主義の歴史でもある。
19世紀、ヨーロッパ列強によるアフリカ・アジアの植民地化が進む中で、熱帯性疾患——とりわけマラリア——は最大の障壁のひとつだった。「白人の墓場」と呼ばれた西アフリカに、ヨーロッパ人がある程度生き延びて進出できるようになったのは、キニーネの普及と無関係ではない。
大英帝国はインドのキニーネ需要を賄うため、広大なキナ農園をインドや後にジャワ(現インドネシア)に整備した。皮肉なことに、キナの木の原産地は南米アンデスだ。スペインが植民地から搾取したキナの木を、イギリスはアジアの植民地で大規模栽培し、アフリカの植民地支配のために使った。
知識の旅には、搾取の足跡がある。
そのことを忘れて「発見の物語」だけを語ることには、どこか欺瞞がある。ペルーの先住民の知恵がなければ、ペルティエとカヴァントゥの発見もなかった。そして彼らの発見は、植民地主義の道具として活用された。
発見は中立ではない。問いはここに戻ってくる。
合成への挑戦と、偶然の化学
20世紀に入ると、科学者たちはキニーネを「作る」ことに挑戦し始めた。
南米のキナ農園に依存することなく、安定した供給を確保したい——この動機は、純粋に科学的な挑戦であると同時に、政治的・経済的な必要性でもあった。特に第二次世界大戦中、日本がジャワを占領し、連合国軍のキニーネ供給が深刻に脅かされると、合成抗マラリア薬の開発は軍事的緊急課題となった。
この時期に登場したのが、アタブリン(Atabrine)、そしてクロロキン(Chloroquine)だ。
クロロキンはもともとドイツで1934年に合成されていたが、当初の毒性試験で不合格とされ、棚上げになっていた。アメリカが戦時中に組織的に抗マラリア薬研究を進める中で、クロロキンの再評価が行われ、1947年に臨床使用が承認された。
棚の中で眠っていた化合物が、戦争の必要によって呼び起こされた。ホフマンのLSDと同じ構造だ——否、この「発見」の形式には名前がある。用途を待つ化合物が、機が熟したとき、世界に引き出される。
クロロキンは安価で効果的で、しばらくの間、マラリアとの闘いに転換点をもたらした。
耐性という反撃
しかし、原虫は学習した。
1950年代後半から1960年代にかけて、クロロキン耐性のPlasmodium falciparum(熱帯熱マラリア原虫)が報告され始めた。耐性は急速に広がった。東南アジア、南米、そしてアフリカへ。
人間が「答え」を作るたびに、原虫は「答えへの答え」を用意した。
これは螺旋だ。直線ではない。
発見→応用→耐性→新たな発見——この構造は、感染症の薬理史に繰り返し現れる。抗生物質の歴史でも、抗ウイルス薬の歴史でも。人間が薬を作るたびに、微生物は進化し、人間は再び問い直される。
「勝った」と思った瞬間が、次の問いの起点になる。
1972年、北京の図書館で
螺旋の次の段階は、意外な場所から来た。
中国だった。
1967年、毛沢東は北ベトナムを支援するため、ベトナム戦争で深刻な問題になっていたマラリアへの対処を命じた(通称「523プロジェクト」)。クロロキン耐性が広まるなか、新たな抗マラリア薬の開発が国家プロジェクトとして立ち上がった。
この任務に就いた研究者の一人が、屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ、Tu Youyou)だ。
彼女が選んだアプローチは、当時の主流とは異なっていた。合成化学ではなく、伝統中国医学の文献を体系的に調査することだった。何千もの古典的な処方記録を読み込み、候補植物を絞り込んでいった。
一つの記述が目に留まった。
東晋時代(4世紀)に葛洪が著した医学書『肘後備急方』の一節。「青蒿一握(ひとつかみのヨモギ属植物)を水二升に浸し、絞って汁を得て、すべて服す」——これは煎じて飲む方法ではなく、低温で抽出する方法の記述だった。
屠呦呦はそこに手がかりを見た。もしかして、高熱による抽出が有効成分を破壊しているのではないか。
1971年、彼女のチームは低温エーテル抽出法に切り替えた。
1972年、Artemisia annua(クソニンジン、またはセイヨウニンジンボク近縁種)から有効成分の単離に成功した。この成分が、アルテミシニン(Artemisinin)だ。
古典文献の一行が、20世紀の化学者を正しい問いに導いた。
2015年のノーベル賞
屠呦呦がノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、発見から43年後の2015年のことだった。
授賞理由は「マラリアに対する新しい治療法の発見」。アルテミシニンはそれまでのマラリア治療を根本的に変え、数百万人の命を救ったとされる。現在も、WHO推奨の第一選択治療であるアーテメター・ルメファントリン配合剤の中核成分として機能している。
この受賞をめぐっては、興味深い問いがある。
屠呦呦は、薬学の博士号を持っていない。学術論文の形式で研究成果を発表したのではなく、中国国内の機密プロジェクトとして研究を進めた。しかも「523プロジェクト」は集団的なプロジェクトであり、どの段階で誰の貢献が決定的だったかは複雑だ。
それでも、あるいはそれゆえに、彼女の受賞は「発見の物語」の形式そのものを問い直す。
正規のアカデミアのルートから外れた研究者が、古典文献を辿ることで重大な発見に到達した。そして四十年以上の時を経て、世界最高の科学賞がそれを認めた。
科学的発見に、正しい「方法論」はあるのか。
螺旋の構造
ここで少し引いて見てみよう。
キナ樹皮の物語には、一つの構造が繰り返し現れる。
経験的知識 → 化学的単離 → 合成・工業化 → 耐性・限界 → 新たな発見
先住民の樹皮利用がキニーネ単離を促し、キニーネへの依存がクロロキン合成を促し、クロロキン耐性がアルテミシニン発見を促した。
そしてアルテミシニンも、耐性が報告され始めている。カンボジアとタイの国境地帯では、アルテミシニン耐性の熱帯熱マラリア原虫が2008年頃から確認されており、今も拡散している。
螺旋は、止まっていない。
問いも、止まっていない。
答えは先住民の森にあった
一つの事実を確認しておきたい。
アルテミシニンの原料となるArtemisia annuaは、伝統中国医学で千年以上使われてきた植物だ。キニーネと同様に、「発見」の前に「経験知」があった。
ペルーの先住民がキナの木の皮を使い、中国の医家が青蒿を処方し続けた。その蓄積を、現代の化学者が「単離」して、「発見」と名づけた。
これを批判したいのではない。化学的単離は本当に重要な知的作業だ。再現性が生まれ、用量が制御でき、世界に届けることが可能になる。
ただ、「誰が知っていたか」と「誰が発見者と呼ばれるか」の間には、ずっとずれがある。
そのずれをどう扱うか——これは科学の問いであると同時に、倫理の問いであり、政治の問いでもある。
「伝統的知識の保護」をめぐる国際的な議論は、今も続いている。2010年に採択された名古屋議定書は、遺伝資源へのアクセスと利益配分について国際的な枠組みを提供しようとした。しかし実効性には課題がある。
発見の歴史は、未完だ。
キナの木は今も生きている
ペルーの原産地では、野生のキナの木が減少を続けている。過剰採取と森林破壊の影響だ。
皮肉なことに、世界を救った木が、その世界に追い詰められている。
問いはここにも届く。
私たちは何かを発見するたびに、何かを失っているのではないか。そして失った何かの上に、次の発見を積み上げているのではないか。
進歩という言葉は、前に進んでいることを前提にしている。しかし螺旋は、前にも進むし、下にも掘り下げる。
直線的な進歩ではない。
循環する時間の中で、問いが少しずつ深くなっていく。そういう螺旋だ。
一本の木から
17世紀、アンデスの森で先住民が木の皮を煎じた。
その行為に名前は必要なかった。病が癒えれば、それで十分だった。
しかし世界が広がり、流通が生まれ、科学が生まれ、戦争が来て、耐性が来て、古典文献が読み直され、ノーベル賞が出るまでに、五百年かかった。
マラリアは今も、年間二億人以上が感染し、50万人以上が死亡する(WHO、世界マラリアレポート 2023年推計値)。
問いは、まだ、閉じていない。
一本のキナの木が、今日も森のどこかに立っている。
それが答えを持っているかどうか、私たちはまだ知らない。
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参考文献
- Achan, J. et al. (2011). Quinine, an old anti-malarial drug in a modern world: role in the treatment of malaria. Malaria Journal, 10, 144.
- Tu, Y. (2011). The discovery of artemisinin (qinghaosu) and gifts from Chinese medicine. Nature Medicine, 17(10), 1217–1220.
- Tu, Y. (2016). Nobel Lecture: Artemisinin — A Gift from Traditional Chinese Medicine to the World. NobelPrize.org
- Rocco, F. (2003). The Miraculous Fever-Tree: The Cure That Changed the World. HarperCollins.
- WHO. (2023). World Malaria Report 2023. World Health Organization.
- Bolcato, V. et al. (2018). The history of cinchona bark: from its discovery to its use as an anti-malarial drug. Infectious Diseases and Therapy, 7, 525–535.(参照:一般的文献情報として記載)
- 名古屋議定書(生物多様性条約 遺伝資源へのアクセスと利益配分に関する議定書、2010年採択・2014年発効)