発見には、必ず「最初の人間」がいると思いがちだ。
しかしキナの木の話を辿っていくと、その確信は少しずつほどけていく。
森の中の知識
ペルー、アンデス山脈の東斜面。現在のエクアドルとペルーにまたがるその地域に、キナキナ(Quina-quina)と呼ばれる木が自生していた。
ケチュア語で「樹皮の木」を意味するその植物を、先住民たちは古くから知っていた。
寒気と震えを伴う熱——今日でいうマラリアの症状——に対して、キナの樹皮を粉にして水に溶かして飲む。それが效いた。いつからそれを知っていたのか、記録はない。記録のない知識は、発見と呼ばれない。あるいは、発見とは記録されることそのものなのか。
この問いに、キニーネの歴史は最初から向き合うことになる。
伯爵夫人の逸話
1638年。ペルー副王の妻、アナ・デ・オソリオ——チンチョン伯爵夫人——がリマで重いマラリアに罹った。
地元の総督がキナの樹皮の粉を勧め、夫人は快復した。夫人はその後スペインに帰国するにあたって大量の樹皮をヨーロッパへ持ち帰り、その薬効を広めた——。
この物語は美しい。ヨーロッパへの橋渡しとなった高貴な女性の回復という、伝播の物語として完璧な形を持っている。カール・フォン・リンネは1742年、キナの木にその名を冠して「Cinchona」と命名した。
しかし後世の研究者たちが伯爵夫人の日記を調査したところ、マラリア罹患の記録も、樹皮薬を使ったという記録も見当たらなかった。
逸話は美しかった。しかし、おそらく事実ではなかった。
では、誰がキナをヨーロッパへ持ち帰ったのか。
イエズス会の旅行鞄
より確かな記録は、イエズス会の宣教師たちが持っている。
17世紀半ば、ペルーに派遣されていたイエズス会士たちは現地の医療知識に深い関心を払い、キナの樹皮の薬効を記録した。ローマへの報告書に、その効能が記載されていた。
1650年代、イエズス会のアガスティン・サルンベ神父が大量のキナの樹皮を持ってヨーロッパへ帰還し、ローマをはじめとする各地で「熱病の薬」として分配・販売した。これが実際の流通経路として最も信頼される記録だ。
「イエズス会の樹皮(Jesuit’s bark)」「枢機卿の樹皮(Cardinal’s bark)」——キナはそう呼ばれて急速に広まった。17世紀後半のヨーロッパで、マラリアは死と恐怖を意味していた。イングランド王チャールズ2世のマラリアを治したという記録も伝えられている。
宣教師の旅行鞄から、薬は広がった。しかし「なぜ効くのか」は、まだ誰も知らなかった。
「なぜ」を問い始めた時代
18世紀を通じて、キナは「経験的に効く薬」として使われ続けた。効果は疑いなかった。機序は謎のままだった。
この時代の医学は、「効く」と「なぜ効くか」を区別しなかった。医師たちは現象を観察し、処方を調整し、患者が回復すれば「当たり」とした。今日の薬理学的な概念——有効成分の単離、作用機序の解明——は、まだ存在していなかった。
樹皮全体を粉にして飲む。それが19世紀初頭まで、キナの使われ方だった。
化学が本格的に発展し、植物から「有効成分」を取り出すという発想が生まれるのは、18世紀末から19世紀初頭のことだ。
1820年、二人の化学者
パリ。1820年。
ジョゼフ・ペレティエ(Joseph Bienaimé Pelletier)とジョゼフ・カバントゥ(Joseph Bienaimé Caventou)——名前がよく似た二人の若いフランス人薬学者が、薬用植物から活性成分を単離する研究を続けていた。
この2年前の1818年、彼らはすでにストリキニーネ(マチン種子の有毒アルカロイド)を単離していた。1820年にはコルヒチン(秋咲きクロッカスの抗炎症成分)の研究も行っていた。
そして同じ1820年、彼らはキナの樹皮からアルカロイドを抽出することに成功した。
その物質を彼らは「キニーネ(quinine)」と名づけた。ケチュア語の「キナキナ」に由来する命名だ。
ペレティエとカバントゥは特許を取得しなかった。研究成果を直ちに公表し、他の薬学者が活用できる形で開示した。彼らの記録によれば、その判断は意図的なものだった——「この発見は公共のものであるべきだ」と。
科学的発見をどう扱うかという問いに、二人は一つの答えを出した。
キニーネが変えた世界
キニーネの単離は、19世紀の植民地支配と直結している。
ヨーロッパ列強がアフリカに深く進出できなかった最大の障壁の一つが、マラリアだった。アフリカ内陸部に踏み込んだ白人の探検家や軍人は、「白人の墓場」と呼ばれた熱帯の環境で次々と命を落とした。
キニーネは、その障壁を下げた。
1840年代以降、イギリス、フランス、ベルギーの植民地軍はキニーネを予防的に服用する習慣を持ち込んだ。キニーネをトニックウォーターに混ぜて飲んだのが「ジン・トニック」の起源とも言われる——あの飲み物の苦みには、植民地支配の歴史が溶けている。
薬は中立ではない。何かを可能にした薬は、その「何か」の歴史を背負う。
戦争とキニーネ不足
1942年。
太平洋戦争の開戦後、日本軍がインドネシア(蘭領東インド)を制圧した。
当時、世界のキニーネ生産量の約90%はインドネシアのジャワ島で生産されるキナの木に依存していた。連合国はその供給を一瞬で失った。
太平洋・東南アジアの戦線に展開した連合国兵士の間で、マラリアが猛威を振るった。第二次世界大戦中、マラリアによって戦闘不能になった兵士の数は、銃創・砲撃による負傷者に匹敵するともされる。
アメリカ軍は急遽、代替薬の開発を命じた。
そこで生まれたのがクロロキン(Chloroquine)だ。ドイツですでに研究されていた合成マラリア薬を、アメリカが戦時開発で完成させた。1944年に量産が始まった。
200年越しにキナの木が持っていた答えを、化学合成で再現する——キニーネから始まった旅が、戦争の圧力によって次のステージへ進んだ。
問いが重なる場所
キニーネの歴史を辿ると、「発見」という言葉の輪郭が曖昧になる。
ケチュア語でキナキナを呼んでいた人々は、発見者ではないのか。イエズス会士がヨーロッパへ持ち帰らなければ、1820年の単離もなかった。ペレティエとカバントゥが特許を取らなければ、普及の速度は違ったかもしれない。日本軍のジャワ占領がなければ、クロロキンはもっと遅く生まれたかもしれない。
何かが発見されるためには、無数の前提が積み重なっている。
その前提の多くは、意図せざる歴史の産物だ。植民地主義、戦争、宗教の伝播、化学の発展、名も残らない先住民の知恵。
「誰が発見したか」と聞かれたとき、一人の名前を答えるのは、問いの半分にしか答えていない気がする。
今も終わらない話
現在、マラリアは年間約2億件が発症し、約60万人が死亡する(世界保健機関、2022年統計)。感染者の大半はサハラ以南のアフリカの子どもたちだ。
キニーネから始まった抗マラリア薬の系譜は、クロロキン、アルテミシニン(2015年ノーベル賞)を経て今も研究が続いている。薬剤耐性マラリア原虫の出現という問題が、新たな層をつけ加えながら。
発見は、完了しない。
17世紀のアンデスの森で、誰かがキナの樹皮を煎じた。
その人物の名前は記録されなかった。
しかし、その知識は旅をした。宣教師の旅行鞄に入り、ヨーロッパの薬局に並び、帝国の軍隊の糧食に混ざり、戦時の研究室で結晶化され、今日の処方箋の祖先になった。
知識は、記録された人間のものではない。知識は、流れていく。
それを「発見」と呼ぶのなら、発見とは一点ではなく、連続する問いのことなのかもしれない。
この物語が残す問い
- 記録されない知識は、発見と呼べないのか
- 薬が何かを可能にしたとき、その薬はその「何か」に責任を持つのか
- 発見は個人のものか、それとも時代の産物か
発見がつながる先
参考文献
- Rocco, F. (2003). The Miraculous Fever-Tree: Malaria and the Quest for a Cure that Changed the World. HarperCollins
- Duran-Reynals, M. L. (1946). The Fever Bark Tree: The Pageant of Quinine. Doubleday
- Achan, J. et al. (2011). “Quinine, an old anti-malarial drug in a modern world: role in the treatment of malaria.” Malaria Journal, 10, 144
- World Health Organization. (2022). World Malaria Report 2022. WHO
- Pelletier, P. J. & Caventou, J. B. (1820). “Des recherches chimiques sur les quinquinas.” Annales de chimie et de physique, 15, 337–365
- Ackerknecht, E. H. (1945). “Malaria in the Upper Mississippi Valley 1760-1900.” Bulletin of the History of Medicine