ある人間の名前は、その人間が消えてからも生き続けることがある。
ジョン・スティス・ペンバートン(John Stith Pemberton)の名前を、世界の大多数の人は知らない。しかし毎日19億本以上、世界200か国以上で消費されているあの黒い炭酸飲料は——彼が銅のケトルで煮詰めたシロップから始まった。
名前は消えても、形は残る。そのことが何を意味するのかを、私はうまく言葉にできない。
薬剤師・軍医・傷ついた男
1831年、ジョージア州。ペンバートンはそこで生まれた。
薬剤師の資格を取り、地元で薬局を開いた。医療と化学が今ほど分かれていなかった時代——薬剤師とは、素材を調合し、症状に処方を当てていく職人であり、科学者であり、商人でもあった。
1861年、南北戦争が始まる。
ペンバートンは南軍の軍医として戦場に立った。戦争の中で人間の体に何ができて何ができないかを、彼は繰り返し目撃した。そして1865年、戦争が終わったとき、彼は自分の体に一つの問題を抱えていた。
剣傷の慢性的な痛み。
当時の治療選択肢は限られていた。モルヒネは一般的な鎮痛剤として薬局で販売されており、多くの負傷した兵士がそれに依存するようになっていた。ペンバートンも、そうなった。
薬剤師が薬に依存する。その矛盾を、彼は恐らく誰よりも鋭く自覚していた。
代替物を探す旅
依存を断ち切りたかった、というのは確かだろう。
1880年代、ペンバートンはコカの葉に注目した。南米原産のコカ植物の葉から採れる成分——当時はまだ「コカイン」という物質が発見されて間もない時期であり、その依存性や危険性についての認識は今とはまったく異なっていた。疲労回復・気分向上・鎮痛。医学的に「有望な成分」として扱われていた時代の話だ。
1884年頃、ペンバートンは「ペンバートンズ・フレンチ・ワイン・コカ」の製造・販売を始めた。コカの葉のエキスとアルコールを組み合わせた薬用飲料で、モルヒネの代替としても、市場の薬用ワインブームに乗るためにも、理にかなった選択だった。
これが売れた。
しかし1885年、アトランタおよびフルトン郡は禁酒法を制定し、1886年初頭に施行された。
アルコールを含む製品は販売できなくなった。
30種類の試作
禁酒令は、ペンバートンに処方を変えることを強いた。
アルコール抜きで、コカの葉とコーラの実(カフェインを含むアフリカ原産の植物)の成分を、飲みやすい形にすること。1886年の春、彼はアトランタのバックヘッド地区にある自宅の庭に炉を据え、銅のケトルで実験を繰り返した。
記録によれば、この時期の試作は30種類を超えた。
それはひらめきではなく、消去の作業だった。使えないものを一つずつ除いていく。飲めないものを捨てていく。「科学と感覚が混在した、古い意味での薬剤師の技法」とコカ・コーラ誕生秘話の記事で書いたが、それはもう少し正確に言うと、職業的な執念の積み重ねだった。
そしてある日、シロップの原液が完成した。
助手のフランク・ロビンソンにそれを持たせ、近くのジェイコブス薬局に売り込みに行った。
薬局のカウンターで炭酸水と混ざったとき——あの泡が生まれた。
炭酸水が「偶然」使われた経緯については諸説ある。詳細はコカ・コーラが薬局で生まれた理由を探る記事に譲るが、いずれにせよ、その一杯が「うまい」と言われた。
命名者は発明者ではなかった
飲み物の名前をつけたのは、ペンバートンではない。
助手のフランク・ロビンソンだ。経理担当だった彼は、商売人の直感で「コカ・コーラ」という名前を思いつき、あの筆記体のロゴを手書きした。
ロビンソンが書いたスクリプト体のサインは、今も世界中のボトルに刷られている。
発明の形を作ったのは、発明者ではなかった。これはコカ・コーラ誕生秘話と禁酒運動の文脈とも絡み合う事実だが、ここで問いたいのはそのことではない。
発明の「形」と発明の「中身」は、誰が決めるのか、という問いだ。
1886年5月8日
1886年5月8日、コカ・コーラはジェイコブス薬局で正式に販売が開始された。これが公式の「誕生日」とされている。
価格は1杯5セント。
最初の年の売上は約50ドルだった。製造コストを差し引けば赤字で、広告費の約73ドルの方が上回っていた。
世界一売れた飲み物の最初の1年は、赤字だった。
価値と評価の間には、時差がある。いつもそうだ。
手放す男
1887年から1888年にかけて、ペンバートンは経営難から事業の権利を段階的に売却し始めた。
コカ・コーラの処方と権利を買ったのは、アトランタの実業家エイサ・グリッグス・キャンドラーだった。総額約2300ドル。複数回の取引にわたって権利は移転した。
ペンバートンは後に「私はコカ・コーラを手放すつもりはなかった」と語ったとも伝えられるが、その言葉の真偽を確かめる術はない。経営状況と健康の悪化が彼に選択の余地を残さなかった、という解釈が一般的だ。
1888年8月16日、ペンバートンは亡くなった。57歳だった。
コカ・コーラがキャンドラーの手によって全米に展開されるのは、その翌年以降のことだ。1892年にコカ・コーラ・カンパニーが設立され、1919年には株式売却が約2500万ドルで行われた。
ペンバートンが売った2300ドルは、数百兆円規模のブランド価値の種だった。
問い
ペンバートンは、何を達成したのか。
モルヒネ依存からの脱却——それは成功したのか。彼が死ぬまでの数年間、依存が続いたという記述も資料によっては見られる。コカ・コーラはその問いに答えなかったかもしれない。
「頭痛と疲労に効く薬」——それも正確には届かなかった。コカ・コーラは薬として始まり、飲み物として世界に広がったが、ペンバートンの薬としての意図は、形を変えて流通した。
では「世界一売れた飲み物の発明者」——それは確かにそうだ。ただし彼はその飲み物が世界に広がるのを見ることができなかった。
成功とは、何をもって成功というのか。
目的と結果が一致しないとき、それでも成功と呼んでいいのか。発明した人間が、発明の恩恵を受け取らないとき、「発明者」という称号はどんな意味を持つのか。
答えは出ない。
ペンバートンは今もジョージア州アトランタに眠っている。オークランド墓地に、静かに。
毎日、世界のどこかで19億本以上の飲み物が消費される。そのすべての起点には、1886年の春、銅のケトルで何かを煮ていた1人の薬剤師がいる。
その人の名前を、世界の大多数は知らない。
この物語が残す問い
- 発明した人間が発明の果実を受け取らないとき、「発明者」という言葉は何を意味するのか
- 目的と結果がまったく異なった発明を、成功と呼んでいいのか
- 自分の傷を癒やすために作ったものが、他者の喜びになるとき、それは何が起きているのか
コカ・コーラ誕生の3つの角度
同じ1886年の出来事を、異なる問いから見た3つの記事がある。
- コカ・コーラ誕生秘話——薬局の試行錯誤と、偶然が味方した日 — 炭酸水の「偶然」をめぐる問い
- コカ・コーラ誕生秘話——薬局の試行錯誤と「偶然の配合」が生んだ帝国 — 禁酒令という外部制約が発明を変えた話
- 炭酸水は「薬」だった——コカ・コーラ誕生を支えた19世紀の科学的信仰 — 炭酸水が「医療」だった文化的背景
参考文献
- Pendergrast, M. (1993). For God, Country, and Coca-Cola. Basic Books
- Allen, F. (1994). Secret Formula: How Brilliant Marketing and Relentless Salesmanship Made Coca-Cola the Best-Known Product in the World. HarperCollins
- The Coca-Cola Company. “Our History.” https://www.coca-colacompany.com/about-us/history