参議院本会議は九日午後、「 味覚表現物の創作的保護に関する法律 」——通称 「味覚著作権法」 ——を賛成二百十二、反対二十七で可決した。世界初の「味の知的財産法」だ。これにより、料理人が創作した味覚パターンは著作物として保護され、無断複製には最大で五年以下の懲役または五百万円以下の罰金が科される。施行は二〇七八年一月一日。
法整備の引き金を引いたのは、二〇六〇年代に急速に進化した 分子味覚スキャン技術 だった。二〇二六年にAI創薬分野で飛躍的な進歩を遂げたタンパク質構造解析技術が、味覚センサーの精度を数百倍に引き上げた。二〇四五年、フランスのフードテック企業 ギュスターヴ・ラボ社 が開発した携帯型味覚スキャナー 「パレット」 は、料理の分子組成を三十二万のパラメーターで記録し、3Dフードプリンターで 味の完全複製 を可能にした。価格は初代機で約百二十万円、二〇六〇年代の廉価版は三万円を切った。
パレットの普及がもたらした最初の衝撃は、ミシュランの崩壊だった。二〇五五年、パリの三つ星レストラン 「メゾン・ド・リヴィエール」 のシェフ、ジャン=ポール・デュボワが二十年かけて完成させた伝説の一皿「 記憶の庭 」が、翌日には上海の屋台で一杯八百円で提供された。スキャンから複製までわずか四時間。味は分子レベルで 九十九・七パーセント一致 していた。デュボワは記者会見で「私の人生が四時間で盗まれた」と涙を流し、訴訟を起こしたが、当時の法律には味を保護する規定がなかった。「レシピは著作物ではない」という百年来の法理が、料理人の創造性を法的な無防備状態に置いていたのだ。
フランスを皮切りにEU、アメリカが相次いで味覚保護の法整備に着手したが、日本の法律はもっとも踏み込んだ内容となった。特許庁に新設された 「味覚審査官」 は、全国から選抜された超味覚能力者——いわゆる 「スーパーテイスター」 ——六十四名で構成される。彼らはブラインドで二つの味を比較し、創作的同一性を判定する。AI解析との二重チェック体制により、判定精度は 九十六・八パーセント に達するという。
法律は味覚を三つのカテゴリーに分類した。 「芸術的味覚」 は三つ星レストランや受賞歴のある料理人の作品に適用され、保護期間は創作者の死後七十年。 「商業的味覚」 は食品メーカーの製品に適用され、保護期間は二十年。そして議論を呼んだ第三のカテゴリー、 「伝承的味覚」 は家庭料理や郷土料理に適用されるが、その権利帰属は 曖昧なまま 残された。
この曖昧さが、法案審議最大の争点だった。参議院の審議で野党議員の木下真澄氏はこう追及した。「私の祖母の肉じゃがの味を、私が再現することは合法なのか。レシピではなく あの味そのもの が保護対象になるなら、祖母の味を受け継ぐ孫は著作権侵害者なのか」。内閣法制局は「 家庭内での味覚の再現は私的利用として適用除外とする 」と回答したが、では「家庭の味」を使って居酒屋を開いたらどうか。友人に振る舞ったら? SNSにレシピを公開したら? 境界線は限りなく曖昧だ。
食文化研究家の桜井伊織氏は「この法律は食文化の DNA を破壊しうる」と警告する。「料理の歴史は、模倣と改変の連鎖だ。フランス料理はイタリア料理を模倣して始まり、日本のカレーはイギリス経由でインドのカレーを変形させたものだ。ラーメンは中華料理から分岐し、独自の進化を遂げた。あらゆる料理は 誰かの味のフォーク であり、そのフォークを禁じることは、料理の進化を凍結させることに等しい」。
これに対し、法案を主導した農水省の藤原陽一次官は「 保護なくして創造なし 。音楽も文学も映画も、著作権によって創作者の投資が守られてきた。味覚だけが無法地帯であり続ける理由はない」と反論する。だが、桜井氏はさらに踏み込む。「音楽には楽譜がある。文学にはテキストがある。では味の 原本 は何だ。料理人が作った一皿は、食べた瞬間に消える。消えるものに永続的な権利を認めることの哲学的矛盾を、立法者は理解しているのか」。
市場はすでに動いている。国内最大のフードテック企業 テイスト・ブロックチェーン社 は、料理の分子構成をNFT化する「 フレーバーNFT 」サービスを発表。料理人は自作の味を登録し、ライセンス収入を得られる仕組みだ。初月の登録数は八万件。一方、全国の料理学校は対応に追われている。「 模倣から始まる修業 」という調理師教育の根幹が、法的リスクを伴うようになったからだ。辻調理師専門学校の幹部は匿名でこう漏らした。「師匠の味を完璧に再現できて一人前、というのがこの世界の不文律だった。それが違法になるなら、料理人はどうやって育つのか」。
さらに予想外の波紋が広がった。法施行を見越して、全国の高齢者の間で 「味覚遺言」 を残す動きが加速している。自分の料理をパレットでスキャンし、味覚データを遺産として子や孫に相続させる。法律事務所 リーガルテイスト には月間三千件の相談が押し寄せ、「おふくろの味の相続」が新たな法律実務となりつつある。だが、ある遺族はこう語った。「祖母の煮物のデータは受け取ったが、 再現するたびに著作権料を払うのか、自分の祖母に 。これは文化の保護なのか、記憶の課税なのか」。
消える料理に永遠の権利を——そのパラドックスの中に、法が追いつけない問いが煮詰まっている。誰かの舌の上で溶けた瞬間にだけ存在する芸術を、果たして誰が 所有 できるのだろうか。


