2036年4月1日、「 文化的健康促進法(通称:文健法) 」が施行された。
この法律の目玉は第7条だ。厚生労働省が認定した「 文化的健康アドバイザー 」の資格を持つ書店員が、睡眠障害・軽度のうつ・孤独感・燃え尽き症候群といった精神的不調に対して、 書籍による介入プログラム「読書処方箋」 を発行できるようになった。対象書籍の購入費は、年間5万円を上限に医療費控除の対象となる。
全国書店組合によれば、法施行翌日から認定申請が殺到し、初日だけで2,847件の手続きが完了した。
発端は2034年の「 読書と精神健康に関する大規模コホート研究 」だった。
国立精神・神経医療研究センターが12万人を対象に3年間追跡した結果、週2時間以上の読書習慣を持つ群は、軽度うつの発症リスクが37%低く、認知症の発症が平均4.2年遅れることが示された。さらに、「自分に合った本を選んでくれる専門家がいる」場合、読書の精神的効果は単独読書の2.3倍になるという副次知見が、政策立案者たちの目を引いた。
当時の文部科学大臣・篠田千恵氏は「本は薬だ。だが処方されなければ届かない」と国会で発言し、この言葉がそのまま法律の理念として前文に組み込まれた。
実際の運用はどのようなものか。
京都市烏丸通の老舗書店「恵文社」では、文化的健康アドバイザーの資格を持つ書店員・高木奈都子さん(34)が、予約制の「読書相談室」を週3日開いている。30分の面談で、相談者の悩み・読書歴・生活リズム・得意な読み方(熟読型か飛ばし読み型か)をヒアリングし、3〜5冊のリストと「読む順番」「どこで読むか」の指示を記した処方箋を渡す。
「病院の処方箋と形式を合わせました」と高木さんは言う。「 お薬手帳のような『読書手帳』 を作ることを勧めています。読んだ日付、読んでいるときの気分、読み終えた後の変化。それを書き留めることが、次の処方への情報になる」。
処方箋の右上には「文化的健康アドバイザー・高木奈都子」の認定番号が入り、医療費控除申請書類として使用できる。税務署の窓口でこれを提示したある会社員は、「最初、担当の職員も戸惑っていた」と苦笑いした。「でも確かに、去年の秋に処方してもらった本で、3ヶ月かぶりに朝起きることが楽しみになったんです」。
書籍売上への影響は劇的だった。
出版科学研究所の速報によれば、法施行から1ヶ月で書籍売上は前年同月比 +23.4% 。特に「自分では絶対に選ばなかった」カテゴリ——植物学の専門書、江戸時代の随筆集、アフリカ文学の翻訳——の売上が急伸している。
これは処方のロジックによる。「困っている人に近い体験を書いた本を渡しても、共鳴しすぎて辛くなることがある」と高木さんは説明する。「 自分の苦しみとまったく関係のない世界 に連れていく本の方が、結果として回復が早い。眠れない人に不眠の本を渡しても、また眠れなくなるだけかもしれない。南米の熱帯雨林の鳥の生態を書いた本を渡したほうがいい場合がある」。
しかし、この制度に懐疑的な声もある。
文学研究者の山口真弓・早稲田大学教授は「読書の自由」という観点から異議を唱えた。「本との出会いは偶然であるべきで、目的化された瞬間に何かが失われる。処方箋という形式は、読者を『患者』に、書店員を『医師』に変換してしまう。 自分で本を選ぶ行為そのものが持っていた主体性 が、制度によって奪われないか」。
一方、精神科医の立場から評価する声もある。八王子の精神科クリニックを開業する田辺誠医師は「軽度の精神的不調は、薬よりも先に文化的介入が効く場合が多い。しかし保険診療の制約の中で、医師が読書を『処方』することは事実上できなかった。この法律は、その空白を埋めてくれる」と語る。
最も静かな反応を示しているのは、書店員たち自身かもしれない。
ある地方の認定書店員は、SNSにこんな投稿をした。「処方箋を書いた。でも本当は、本を選んでいる間ずっと思っていた。これは私が選んでいるのではなく、 本が選ばれたがっている のかもしれないって。書店員は媒介者にすぎない。本はずっと、読まれる人を待っていた」。
処方された本は、誰かに読まれるのを待ちながら棚に立っている。その本の隣にある本も、また待っている。
文化的健康促進法は、その待ち時間を少しだけ短くしただけかもしれない。
参考文献
- 国立精神・神経医療研究センター「読書と精神健康に関するコホート研究」(2034年)— 読書習慣と精神疾患発症リスクの大規模追跡研究
- Bibliotherapy Foundation, Reading as Prescription: A Clinical Guide (2031) — 読書療法の臨床応用に関する国際的ガイドライン
- Susan Elderkin & Ella Berthoud, The Novel Cure (2013) — 症状別の推薦図書リストの先駆的実践