【ジュネーブ=保健政策取材班】 2037年1月20日、WHO本部の大会議室は珍しく静かだった。発表そのものへの驚きがなかったからではない。驚きの余地がないほど、問題が長い時間をかけて積み上げられていたからだ。
「慢性睡眠不足症候群(CISD: Chronic Insufficient Sleep Disorder)」がICD-12に独立疾病として追加された。これまで症状として付随的に扱われていた睡眠の問題が、疾病の原因として正式に格上げされた瞬間だった。
数字の正体
米国では成人の3分の1以上が慢性的な睡眠不足の状態にある。高校生に至れば、その割合は77%に達する。米疾病予防管理センター(CDC)が「睡眠不足は公衆衛生上の流行病」と認定したのは2010年代だった。
それから20年が経過して変わったのは何か。状況ではない——数字だ。RAND研究所の試算によれば、米国が睡眠不足によって失う年間生産性は最大4410億ドルに上る。英国では同様の経済損失が年間500億ポンドを超えると推計されている。個人の怠惰や自己管理の問題として語られてきた「眠れなさ」が、GDPに換算される国家課題として計上され始めた。
2026年に入り、医学誌に相次いで掲載されたコホート研究は問題の深さを可視化した。慢性的な睡眠不足は細胞レベルでの生物学的老化を加速させ、心血管疾患と代謝機能障害を有意に悪化させることが確認された。個人の健康問題が、医療費の増大と労働力の劣化を通じて社会コストに転換される経路が、ようやく定量的に証明されたのだ。
WHOの判断はその先を読んでいた。「第四の生活習慣病」の公式認定は、政策介入の正当化のための布石だった。
スコアが作った新しい圧力
問題を複雑にしたのは、解決策として登場したはずのテクノロジーだった。
2025年時点で、グローバルの睡眠テクノロジー市場は約270億ドル規模に達し、2035年には1000億ドルを超えると複数の調査機関が予測していた。Apple Watch、Oura Ring、Whoop、Muse S——主要なウェアラブルデバイスは、REM睡眠・深睡眠・浅睡眠の比率から心拍変動、体温まで計測し、毎朝「睡眠スコア」として提示するようになった。
スコアの可視化は、行動変容を促す設計だった。だが副作用があった。
「直交性不眠(オルソソムニア)」という概念が2017年に提唱されていた——睡眠スコアへの執着が、かえって睡眠を妨げるという逆説だ。スコアが低い朝は焦りが生まれる。夜はスコアを上げようとベッドに早めに入る。入眠できないことへの不安が深まる——スコアを監視するために、眠れなくなる。
2036年頃から、採用面接でのウェアラブルデータ提示を求める企業が出始めたとされる報告は未確認だが、「睡眠管理能力の高い人材」を採用指標に含める議論は、すでにHR専門メディアで流通し始めていた。眠れないことが「セルフマネジメントの失敗」として評価される社会圧力——テクノロジーが可視化したのは健康だけでなく、見えないはずだった夜の能力差だった。
眠れない理由は構造にある
なぜこれほど多くの人が眠れないのか。
個人の選択に帰する説明は心地よいが、研究の示す構造はより無機質だ。低所得・不安定雇用のグループは、シフト労働や複数掛け持ちによる不規則な睡眠スケジュールを余儀なくされる。騒音、過密住宅、治安への不安、ストレスの慢性化——睡眠の質は所得と相関する。
オックスフォード大学の研究チームが2025年に発表した分析では、英国の睡眠の社会経済的格差は2010年代から一貫して拡大していた。ウェアラブルを買える層は睡眠データを最適化し、買えない層は構造的な睡眠負債を積み上げる。「睡眠格差(sleep inequality)」という言葉が政策文書に登場し始めたのは、2020年代後半だった。
WHOがICD-12に慢性睡眠不足を追加した判断は、この構造を「個人の問題」から「制度が対処すべき問題」に転換する意図を含んでいた。疾病として認定することで、職場の労働環境に対する規制根拠が生まれる。睡眠外来への保険適用が義務化される根拠も。
問いは残る
「眠れる権利」を国家が保障できるのか。
夜勤を廃止すれば物流と医療が止まる。スクリーンタイムの強制制限はプライバシーの問題をはらむ。睡眠スコアの労働評価への使用を禁じる法律が必要なのか——スコア自体が差別ツールになりうるなら、計測そのものを規制すべきなのか。
技術は眠れなさを測定することを可能にした。政策は眠れなさを疾病として命名した。だが、なぜ現代人はこれほど眠れないのかという問いの核心には、まだ誰も手を触れていない。
人は眠ることを忘れたのではない。眠れない理由を、社会が作り続けているのだ。
これは2037年1月20日を起点とした報告です。