心臓を救う薬を探していた
1980年代末、イギリスのケント州にあるファイザー研究所では、狭心症(心臓への血流不足による胸痛) の新しい治療薬の研究が進んでいた。
当時の狭心症治療の主流はニトログリセリンなどの硝酸塩系薬剤だったが、副作用と耐性の問題があった。ファイザーの研究チームは、PDE5(ホスホジエステラーゼ5型)という酵素を阻害することで血管を拡張し、心臓への血流を改善するという新しいアプローチを試みていた。
研究チームを率いていたのは化学者 アンドリュー・ベル、ピーター・エリス、そして後に薬理学的研究を担当した ニコラス・テリット らだ。彼らは1989年頃に シルデナフィル(sildenafil)(開発コード名「UK-92480」)の合成に成功した。
理論上は完璧だった。PDE5を阻害することで血中の環状グアノシン一リン酸(cGMP)の分解を防ぎ、平滑筋を弛緩させ、血管を拡張する——心臓への血流を増やせるはずだ。
臨床試験の「失敗」
1990年代初頭、UK-92480の第2相臨床試験がウェールズで始まった。試験参加者は主に中高年の男性狭心症患者だった。
結果は……期待外れだった。
狭心症への効果は統計的に有意なほどは認められなかった。副作用として頭痛と顔面紅潮が多数報告され、開発中止が検討された。医薬品開発の現場では珍しくない「失敗」だった。
しかし試験を担当していた医師たちは、奇妙なことに気づいた。
試験薬の返却を求めると、参加者の男性たちが渋る。
ファイザーの臨床研究を担当した看護師が、この事実を研究チームに報告した。なぜ試験薬を返したくないのか——慎重に問診を続けると、男性たちが打ち明けた。
「この薬を飲むと勃起が起きる」
「副作用」の再評価
臨床試験の現場から上がってきたこの報告を、ファイザーの研究チームはどう受け取ったか。
現代の医薬品開発において、副作用はまず「問題」として扱われる。しかし今回の「副作用」は——少なくとも当事者の男性たちにとっては——問題ではなかった。むしろ望んでいた効果だった。
当時、男性の勃起不全(ED)は医学的にほぼ治療不可能とされていた。心理的要因が大きいとされ、精神科的アプローチが主流だった。身体的な治療薬は事実上存在しなかった。
ファイザーはこの「副作用」を「新たな適応症」として開発方向を転換することを決断した。
ED(勃起不全)のメカニズムを改めて研究すると、理論的な整合性があった。陰茎の勃起も血管拡張によるものであり、PDE5阻害薬が作用する平滑筋弛緩のメカニズムは、心臓の血管と陰茎の血管の両方に適用できる。狭心症には効果が不十分だったが、勃起不全には非常に有効だったのだ。
1998年——バイアグラの誕生
1998年3月27日、米国食品医薬品局(FDA)はシルデナフィルの、EDの治療薬としての承認を行った。販売名は「バイアグラ(Viagra)」。
商品名の由来については公式な説明はないが、「活力(vigor)」を意味する語と「ナイアガラの滝(Niagara)」の組み合わせとする説が広く知られている。
バイアグラは発売初日から記録的な売上を上げた。承認から3ヶ月でFDAの医薬品承認史上最速のペースで处方箋が出た。1998年末までにファイザーは全世界で数十億ドルの売上を達成し、バイアグラは史上最も急速に普及した医薬品の一つとなった。
発売翌年の1999年、バイアグラの世界売上高は$1.3 billion(約1,300億円)を超えた。2012年に特許が切れるまで、バイアグラはファイザーの主力製品であり続けた。
「副作用」が開いた新たな医学分野
バイアグラの成功は、男性のEDを「治療可能な医学的疾患」として再定義した。
それまでEDは「恥ずかしい問題」として患者も医師も口にしにくいテーマだった。しかしバイアグラの登場と大規模な広告展開(アメリカでは処方薬のDTC広告が解禁された直後だった)が、EDを公開の場で語られる医学的問題へと変えた。
また、バイアグラの後継薬としてシアリス(タダラフィル)、レビトラ(バルデナフィル)などが開発され、ED治療薬市場が生まれた。さらにシルデナフィルは肺動脈性肺高血圧症(肺の血圧が異常に高くなる疾患)の治療薬「レバチオ」としても承認されており、当初の「心臓・血管系への作用」という研究方向が別の形で実を結んでいる。
「失敗」した薬が成功した理由
アンドリュー・ベルはのちにインタビューで語っている。もし「返却を渋った患者」の報告を担当看護師が上げなかったら、もし研究チームがその報告を真剣に受け止めなかったら、シルデナフィルは「失敗した狭心症薬」として開発中止になっていたかもしれない、と。
臨床の最前線で起きた「小さな異変」を見逃さなかった観察力と、「副作用」を「新しい適応症」として読み替えた発想の柔軟性——このふたつがバイアグラを生んだ。
この問いと向き合うとき
狭心症薬の臨床試験で被験者たちが「副作用」を申告しなかった——ヴァイアグラの発見は、人間の羞恥心と製薬研究が交差した奇妙な物語だ。
この物語が教えてくれること
バイアグラの物語は「目的外使用の価値」を鮮やかに示している。
医薬品開発において、ある薬が当初の目的とは異なる疾患に効くという発見(「ドラッグ・リパーパシング」)は珍しくない。アスピリンが心臓病予防に使われるようになったのも同じ構造だ。しかしバイアグラの場合、「副作用」の発見から方向転換、市場投入までのスピードが特に際立っていた。
「計画通りの結果以外は全て失敗」——この固定観念が、どれほどの発見を潰してきたか。
「試験薬を返却しない患者」という小さなシグナルを、巨大な機会の証拠として読めるかどうか。その感度が、イノベーションの成否を分ける。
思考を刺激する問い
- あなたのプロダクトやサービスを「当初の意図と違う方法で使っている」ユーザーはいないだろうか?そのギャップの中に新しい市場が潜んでいるかもしれない。
- 「副作用」や「計画外の結果」を記録・分析する習慣を持っているだろうか?
- 「失敗した心臓病薬」という見方と「世界最大の医薬品」という見方は、同じ物体を見ている。あなたが今「失敗」と呼んでいるものを、別の視点から眺め直すとしたら?
発見がつながる先
参考文献
- Terrett, N. et al. (1996). U.S. Patent 5,250,534. “Pyrazolopyrimidinone Antianginal Agents”
- Klotz, L. (2005). “How (Not) to Communicate New Scientific Information”. BJU International, 96(7), 956-957