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「本人の意思ではない」とAIが遺言を止めた日——2035年、相続に義務化された意思照合プロトコル

2035年施行の改正相続法で義務化された『意思照合プロトコル』が、ある遺贈の執行を差し止めた。AIは何を根拠に『本人の意思と不整合』と判定したのか。家族は歓迎し、専門家は判定の薄さを指摘する。

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差し止められた遺贈額は、3200万円だった。

2035年4月、改正相続法で義務化された「意思照合プロトコル」が施行されて最初の3か月間で、公正証書によらない遺言7件の執行が止まった。うち1件が、都内で工務店を営んでいた内海涼子さん(享年81)の自筆証書遺言だ。遺産の大半を、生前ほとんど接点のなかった奨学財団「若葉こども奨学基金」へ遺贈する内容だった。相続意思照合機構がAIで判定した結果は「不整合」。執行は家庭裁判所の審理待ちで凍結された。

「ほっとしました」。長男の内海航さん(53)はそう語る。「母がそんな団体に全財産同然を渡すなんて、生前は一度も聞いたことがなかった。認知機能が落ちていた時期に誰かに言いくるめられたんじゃないかと、ずっと疑っていました」。


意思照合プロトコルの起点は、2031年に相次いで表面化した自筆証書遺言の偽造・強要事件にある。当時、家庭裁判所が扱う遺言無効確認訴訟のうち「本人の意思に基づくものか」が争点になった件数は、年間3,400件超。実際に無効と認定されたのは約7%にとどまる一方、無効を主張された遺言の多くが係争のまま相続手続き自体を数年単位で停滞させていた。

この状況を受け、2033年の改正相続法は公正証書遺言以外の遺言について、執行前に「意思照合プロトコル」の実施を義務づける。認定を受けたAIシステムが、遺言者本人が生前に残した音声記録・SNSの投稿・医療機関の診療記録・家族や知人との通信履歴などを横断し、遺言の内容が本人の価値観・関係性の履歴と統計的に整合するかを判定する仕組みだ。出力されるのは「整合」「不整合」「判定不能」のいずれかと、その根拠となったデータの一覧である。

内海さんの遺言は、この判定で「不整合」と出た。相続意思照合機構が開示した根拠は2点。内海さんの通信履歴や日記アプリの記録に若葉こども奨学基金への言及が一度も見当たらないこと、そして同時期の医療記録に軽度認知障害の診断があったことだ。


だが、この判定には見落としがある。原因は内海さんが生前使っていたボイスメモアプリのデータで、機種変更の際に移行に失敗し照合対象から漏れていたのだ。長女で内海さんの介護を担っていた戸田美和子さん(56)が保管していた旧端末のバックアップには、死去の8か月前、若葉こども奨学基金の代表と面会した後に録音された音声が残っていた。「あそこの子どもたちに、自分が受けられなかった機会を渡したい」——内海さんの肉声である。

「兄は判定結果を見て安心していましたが、私は違和感がありました。母は最後まで、自分の意思をちゃんと持っていた人です」。戸田さんは家庭裁判所にこの録音を提出し、審理は継続している。

相続意思照合機構の担当者は、旧端末データが照合対象から漏れていた経緯について「本人や家族からの追加データ提出を受け付ける制度はあるが、義務ではない。今回のケースでは提出のタイミングが判定後になった」と説明する。


「照合プロトコルが測っているのは、あくまで『残っているデータとの整合性』であって、『本人の意思そのもの』ではありません」。相続法を専門とする戸澤大学の桐生教授(民法)は指摘する。「データが多く残っている人ほど『整合』と出やすく、寡黙だった人やデジタル機器に不慣れだった人ほど『不整合』と出やすい。この非対称性を、制度は前提にできていない」。

日本公証人連合会は今回の事案を受け、生前にボイスメモや手紙など多様な形式で意思を残しておくことを推奨する啓発活動を検討している。一方、法務省の審議会では、判定を「執行の絶対条件」から「執行前に開示すべき参考情報」へ引き下げるべきだという意見と、義務づけを維持すべきだという意見が割れたままだ。


内海さんの遺言が本当に「本人の意思」だったのかは、まだ確定していない。分かっているのは、その意思を証明できるかどうかが、生前にどれだけ多くのデータを、どれだけ都合よく残せていたかに左右されてしまったという事実だ。

機械が「不整合」と言えることと、本人が実際に何を望んでいたかは、別の話のままだ。

参考文献

  • 古田雄介『スマホの中身も「遺品」です―デジタル相続入門』(中公新書ラクレ675、中央公論新社)— デジタル機器に残る記録が相続の場でどう扱われるかを整理した基礎文献
  • 笹川豪介ほか『Q&Aでわかる! デジタル遺産の相続』(日本加除出版)— SNS・クラウド・通信履歴などデジタル遺産を巡る現行法上の論点整理
  • 池田学『認知症―専門医が語る診断・治療・ケア』(中公新書)— 判断能力の低下が意思決定の記録にどう影響しうるかを理解する基礎文献

作中に登場する資料(本記事内のフィクション、2035年時点で成立している想定の文書・組織)

  • 相続意思照合機構「意思照合プロトコル運用状況報告書」(2035年度第1四半期・想定)— 施行後3か月間の執行差し止め件数7件を示す想定資料
  • 家庭裁判所「遺言無効確認訴訟の争点別集計」(2032年度・想定)— 旧制度下での係争件数・無効認定率を示す想定調査
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