死刑宣告としての診断
1921年以前、 糖尿病(1型糖尿病) の診断を受けた人間の余命は、長くて数年だった。
原因は分かっていた。膵臓の「ランゲルハンス島」と呼ばれる細胞群が分泌する何らかの物質——後に「インスリン」と呼ばれる——が不足すると、血糖を調節できなくなる。理論的には、その物質を外から補給すれば治療できるはずだ。
しかし問題があった。膵臓から抽出しようとすると、同時に分泌される 消化酵素 がインスリンを分解してしまうのだ。膵臓を潰すと消化酵素が大量に溶出し、目的のインスリンを破壊してしまう。この技術的障壁が、医学界の前に10年以上立ちはだかっていた。
医師や研究者は諦めていたわけではない。世界中の研究室で膵臓抽出物を試みる実験が行われていたが、どれも成功しなかった。糖尿病患者には「デンプンを絶つ飢餓療法」が処方されていた——カロリーを極限まで制限することで糖の消費を遅らせ、死を少し先延ばしにする治療法だ。
論文の一行
1920年10月のある夜、カナダ・オンタリオ州の フレデリック・バンティング は医学雑誌を読んでいた。
バンティングは外科医だったが、生理学の教職も持っており、翌日の講義の準備をしていた。そこで「 膵管を結紮すると腺房細胞が萎縮するが、ランゲルハンス島は残存する 」という内容の論文に目が止まった。
ひとつの考えが浮かんだ。「膵管を結紮して消化酵素を分泌する腺房細胞を萎縮させた後、残ったランゲルハンス島から抽出物を取り出せば、消化酵素に邪魔されずに目的の物質が得られるのではないか?」
バンティングは外科医であり、糖尿病研究の専門家ではなかった。しかし彼は翌朝、この着想をノートに書き留めた。その走り書きが、世界を変えることになる。
借り物の実験室
バンティングはトロント大学の生理学教授 ジョン・マクラウド に面会を申し込んだ。
マクラウドは最初、このアイデアに懐疑的だった——というより、礼儀正しく「可能性は薄い」と考えていた。しかしバンティングの熱意に押される形で、一つの条件を出した。「夏の間だけ実験室を貸す。犬を10匹用意する。助手を一人つける」。
マクラウド自身はその夏、スコットランドに休暇で帰国した。
バンティングに割り当てられた助手は チャールズ・ベスト ——医学部学生で、マクラウドが「コインで決めた」という話も残っている。バンティングは外科医として犬の膵管を結紮し、数週間後に萎縮した膵臓から抽出物を取り出した。
1921年7月27日、彼らは糖尿病状態にした犬に抽出物を注射した。
血糖値が劇的に下がった。
最初の人間への投与
動物実験の成功を受け、バンティングとベスト、そして研究に加わった生化学者 ジェームズ・コリップ は、人間への投与に向けた精製を進めた。
1922年1月11日、トロント総合病院に入院中の14歳の少年 レナード・トンプソン に精製されたインスリンが投与された。最初の注射は副作用が出て一時中断されたが、コリップが精製法を改良した二回目の注射は成功した。昏睡寸前だったトンプソンは回復した。
その後わずか数ヶ月で、カナダ全土の糖尿病病棟で「奇跡の回復」が相次いだ。
特許と「ノーベル賞の醜聞」
1922年、バンティング、ベスト、コリップはインスリンの特許をトロント大学に 1ドル で譲渡した。「この発見は人類全体のもの」という信念からだった。現在に至るまで、インスリンは製造コストの問題はあれ、特許によって独占されることはなかった。
1923年のノーベル生理学・医学賞は バンティングとマクラウド に授与された。バンティングは激怒した。夏の間スコットランドにいたマクラウドが受賞し、実際に実験を行ったベストとコリップが受賞しなかったことへの怒りだ。バンティングは賞金の半分をベストに分けた。マクラウドは賞金の半分をコリップに分けた。
この経緯は、科学史における「功績の帰属」をめぐる論争の典型例として今日まで語られている。
この問いと向き合うとき
糖尿病は「死の宣告」だった——インスリン発見前の患者たちの苦しみを知ると、医学の進歩が持つ意味の重さを改めて感じる。
この物語が教えてくれること
バンティングは糖尿病研究の専門家ではなかった。外科医が深夜に読んだ論文の一行から着想を得て、専門外の領域に踏み込んだ。この「専門外の視点」こそが、長年解けなかった問題を解いた鍵かもしれない。
専門家は既に「無理だ」と思い込んでいた。しかしバンティングにはその思い込みがなかった。「なぜこの方法でやらないのか」という素朴な疑問が、専門家が見逃していた道を開いた。
深い専門知識は問題の解法を生むが、同時に「それはできない」という思い込みも生む。外部の視点が、その思い込みを壊すことがある。
そしてこの物語には、利益よりも普及を選んだ倫理的な選択も刻まれている。1ドルの特許譲渡という決断が、100年後の今日もインスリンが世界中の患者に届き続けることを可能にした。
思考を刺激する問い
- あなたの専門分野では「無理だ」と思い込まれている問題はないだろうか?他の専門家が見たら「なぜこの方法を試さないのか」と思うかもしれない。
- バンティングが着想を得た「深夜の論文の一行」——あなたにとって、異分野の知識に偶然触れる機会を、意図的に作っているだろうか?
- 「1ドルで特許を譲渡する」という選択をできる人は、何を大切にしている人だと思うか?
発見がつながる先
参考文献
- Banting, F. & Best, C. (1922). “The Internal Secretion of the Pancreas”. Journal of Laboratory and Clinical Medicine, 7(5), 251-266
- Bliss, M. (1982). The Discovery of Insulin. University of Chicago Press
- Feudtner, C. (2003). Bittersweet: Diabetes, Insulin, and the Transformation of Illness. University of North Carolina Press