【ニューヨーク=上田彩花】 2036年3月22日午後4時47分(現地時間)、国連総会はLunar Resources Treaty 2036(月面資源条約、以下LRT36)を賛成119票、反対12票、棄権34票で採択した。
拍手は静かだった。
■「初批准」をめぐる静かな競争
条約は採択された。しかし外交官たちが本当に関心を持っていたのは、採決の瞬間ではなかった。
LRT36の第14条には、こう書かれている。「最初の5カ国の批准書寄託国は、月面資源管理委員会(Lunar Resources Governance Council、以下LRGC)の常任メンバー資格を得る」。
常任メンバー。その言葉が持つ意味を、各国の代表団は熟知していた。
採択直後から、批准手続きを急ぐ国の外交電報が世界の首都で飛び交い始めた。形式上は「国際協調」。実質は、椅子取りゲームだった。
■条約が生まれた理由——月面のヘリウム3と希土類
なぜ今、月なのか。
2030年代に入り、月面のISRU(In-Situ Resource Utilization、現地資源活用)技術が急速に実用段階へ移行した。米国のArtemis計画が月面に恒久基地の建設を開始し、欧州宇宙機関(ESA)のLuna Prospera拠点が最初の試掘を行い、中国とUAEの共同プログラム「嫦娥深化」が南極付近で水氷の精製実験に成功した。
技術が現実を追い越したとき、制度は追いつけていなかった。
月面資源の中でも特に注目を集めるのが、ヘリウム3と希土類元素だ。ヘリウム3は核融合炉の燃料候補として研究が進む元素で、地球上にはほとんど存在しない。月面の表土には数百万年にわたる太陽風の照射によって蓄積されており、推計埋蔵量は約100万トン。現在の核融合技術では、わずか25トンで現在の全世界の年間電力需要を賄える計算になる——もし、核融合炉が商業稼働すれば、という前提付きで。
希土類についても、月の地殻は地球の鉱床とは異なる分布を示す。地球では中国南部に偏在するネオジムやジスプロシウムが、月面では特定のクレーター周辺に未採掘の状態で存在するとされる。
■1967年条約との断絶、1979年条約との連続
LRT36の法的基盤をめぐる議論は、採択まで7年を要した。
出発点は古い問いだ。1967年の宇宙条約(Outer Space Treaty)は、国家が天体を「領有」することを禁じている。しかし「資源の採掘」については沈黙している。2015年前後から各国が独自の宇宙資源法を整備し始めたのは、その空白を埋めるためだった。
一方、1979年の月協定(Moon Agreement)は月を「人類の共通の遺産」と位置づけ、資源の採掘には国際的な管理体制が必要だと定めた。しかしこの条約を批准した国は少数にとどまり、宇宙開発の主要国はほぼ署名していなかった。月協定は、力のある国に無視された条約として歴史に残った。
LRT36はその失敗の反省から設計されている。
「人類の共通の遺産」という文言は使わない。しかし採掘収益の一定割合を「宇宙開発参加困難国支援基金」に拠出することを義務づける。個別国家や企業の採掘権を認める代わりに、透明性と技術移転の義務を課す。
外交的な言葉で言えば、「1967年条約の精神と、2030年代の技術的現実の間を縫う」。現実的な言葉で言えば、力のある国が署名できる妥協点を探した、ということだ。
それが妥協かどうかは、見る立場による。
■日本・EU・インド・米国——批准の力学
採択から48時間、LRGCの常任メンバー枠5席をめぐる動きが本格化した。
米国は、Artemis計画の主導国として最も強いカードを持つ。しかし議会の批准手続きには最低でも数カ月を要する。ワシントンの外交筋によれば、上院外交委員会はすでに審議スケジュールを「最優先」に格上げしたが、国内産業への影響を懸念する議員の説得に時間がかかっているとされる。
EUは25カ国での議会承認という構造的なハードルを抱える。ブリュッセルでは「ブロック全体として一つの批准」を認めるよう条約解釈の変更を求める動きがあったが、折衝は難航した。EU全体での批准より、ドイツやフランスが個別に先行する可能性が浮上している。
インドは意外な動きを見せた。条約の採択直後、月面開発プログラム「チャンドラヤーン深化」の責任者ヴィクラム・ナンビ氏(59)は国営放送のインタビューでこう述べた。「インドは条約の精神を支持する。そして、速やかに行動する」。外交部は翌朝から国内承認の手続きを開始したとされ、実質的に「最速批准」を目指す意思表示と受け取られた。
そして日本。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)の月面ISRU実験チームのリーダー、橘川恭一郎氏(52)は採択の夜、ジュネーブの日本政府代表部でこう語った。「技術的には、私たちは準備ができている。問題は、制度が技術に追いつくかどうかだ」。
外務省内では「できるだけ早く批准書を提出することが国益に合致する」という判断が固まりつつあるとされるが、国内の経済安全保障法との整合性確認が残っているという。
批准レースの先頭に立つのがどの国か、この記事が配信される時点では——まだ、決まっていない。
■条約の外側にいる国々
反対票12、棄権34。
その数字が指し示すものを、私たちは軽く読み過ごしていないだろうか。
反対国の多くは、資源採掘による環境負荷や収益分配の不公平さを理由に挙げた。月面に基地を持たず、ロケットを保有せず、採掘技術を開発できない国にとって、LRT36は「私たちを除いたルール」に見えるかもしれない。
「支援基金」の拠出比率は採掘収益の2.5%と定められた。しかしその金額を誰が管理し、どの国に、何の基準で配分するかは、LRGCの「常任メンバー」が決める。
国際的な「ルール」とは、誰の利益のために設計されるのか。そしてルールを最初に署名した国が、解釈者になる——その構造を、私たちは別の歴史的場面で見たことがあるはずだ。
■技術の民主化か、先行者利益か
LRT36第27条には「技術共有条項」がある。LRGC常任メンバーはISRU技術のノウハウを「参加困難国への技術移転プログラム」を通じて開示する義務を負う。
アフリカ宇宙政策研究所のコフィ・オウス氏(44)はこう評価する。「条文は美しい。しかし移転すべき技術の範囲、開示のタイミング、支援規模——すべてが常任メンバーの裁量に委ねられている」。
義務は書かれている。内容は、これから決まる。
■条約は現実より早く来た
2036年現在、月面に長期滞在する人間はいない。Artemis基地の常駐要員は最大6名で、滞在期間は3カ月が上限だ。本格的な商業採掘が始まるのは、どんなに楽観的な見通しでも2040年代以降とされている。
ルールが技術より先に存在する。
大航海時代に、植民地支配のルールは征服が始まってから事後的に作られた。LRT36は、月の採掘が始まる前にルールを作ろうとした試みだ。それ自体は、評価されるべきかもしれない。問題は、そのルールが「誰のための先行入力」かだ。
条約採択から3週間後の4月12日、ジュネーブの国連欧州本部に一通の外交文書が届いた。インド共和国の批准書だった。LRGCの最初の常任メンバーとして、インドの名が正式に記録された。
続く2カ国目の批准を、今、複数の国が競っている。
その夜、ニューデリーで記者会見に臨んだヴィクラム・ナンビ氏は、こう語った。
「月は誰のものでもない、と条約は言う。しかしルールは、誰かのものだ」。
彼は笑わなかった。記者たちも笑わなかった。
会見室の外では、次の批准国を目指す各国代表団が、それぞれの本国に向けて暗号通信を送り続けていた。
本記事は2036年を舞台とした架空のニュースです。登場する人物・機関・統計データはすべてフィクションです。Lunar Resources Treaty 2036、月面資源管理委員会(LRGC)は架空の組織・条約です。