【東京=藤原誠一】 2036年3月19日、参議院本会議は「デジタル遺産の管理及び継承に関する法律」(通称・デジタル遺産法)を賛成二百一、反対三十七で可決、成立した。
死後に残るSNSアカウント・メッセージ履歴・AIメモリアル機能のデータを、誰がどのように管理・継承できるかを初めて法的に定めた。施行は2036年7月1日。
■ 法廷で始まった「最初の争い」
法律が成立する三ヶ月前、東京家庭裁判所の第9調停室に、弁護士の 橘圭介(44) の姿があった。
依頼人は、神奈川県在住の47歳の女性だ。昨年秋に急逝した父親が残したSNSアカウントの継承権を求め、異母兄との間で審判を申し立てた。問題の核心は、父が生前に「AIメモリアル機能」を契約し、死後も自動応答が続く設定にしていたことだった。
AIメモリアルとは、利用者が生前に残した投稿・音声・チャット履歴を学習し、死後も本人の文体・口調で応答し続けるサービスだ。2033年頃から国内外の複数事業者が提供を始め、2035年末時点で国内登録者は約94万人に達している。
「父のアカウントから、死後も返信が来ていた」と依頼人は橘に語った。「異母兄はそれを父の意思として引用し、資産分割の交渉に使っている」。
橘が調べると、現行の民法が想定しているのはあくまで「財産」の相続だった。データは財産か。AIが生成した応答は意思表示に当たるか。答えを書いた条文は、どこにも存在しなかった。
■ 法律が空白に踏み込む
デジタル遺産法は、三つの主要な権利区分を設けた。
第一は 「管理継承権」 だ。故人のSNSアカウント・メッセージ履歴・クラウドストレージに対し、法定相続人が継承・閲覧・削除を申請できる権限を明文化した。従来は各プラットフォームの利用規約に委ねられており、対応は事業者ごとにばらつきがあった。
第二は 「AIメモリアル停止請求権」 だ。法定相続人の過半数が合意すれば、死後もAI応答が継続するサービスの停止を事業者に義務として要求できる。「故人の声」を利用した詐欺被害が2034年から急増していたことが、立法を急がせた直接の要因だ。
第三は 「デジタル遺言」の法的効力の認定 だ。本人が生前に「死後のデータをどう扱うか」を記録したデジタル文書に、公証人の認証を経れば遺言と同等の効力を持たせる制度が創設される。
法務大臣の松岡は成立後の会見で、「デジタルの死は、現実の死から遅れて到来する。その空白を放置することは、遺族の権利だけでなく、故人の尊厳も守れない」と述べた。
■ 残された問い
橘が担当する審判は、法律の施行を待たずに続いている。
今回の法律は財産的価値のあるデータの継承については一定の枠組みを示した。しかし、AIメモリアルが生成した応答が「故人の意思」として使われることへの実質的な規制は、まだ薄い。
「AIが父の口調で書いたメッセージは、父の言葉か」と橘は問う。「それが証拠として裁判に持ち込まれるとき、裁判官は何を判断するのか」。
デジタルデータは劣化しない。記憶は薄れ、証拠書類は残り、AIはそれを使い続ける。
相続法が想定してきた「死」は、ある日を境にすべてが終わる出来事だった。デジタルの世界でそれは必ずしも成立しない。人が死んだあとも、その人の「声」が返事をし続けるとき、法律は何を守ろうとしているのか。
橘はその問いを抱えたまま、次回の審判期日に向けて記録を読み直している。
■ 関連記事
デジタルで残された故人の「声」を遺族が「使う」社会の倫理的問題は、グリーフテック規制の文脈でも議論されている。→ AIグリーフコンパニオン規制法案、国会提出
脳データを記録・保全する義務化法が問う「人の記憶の所有権」は、このデジタル遺産問題と地続きだ。→ 脳データ義務化法、成立
参考文献
- 法務省「デジタル時代の相続法制に関する研究会報告書」(2024年3月) https://www.moj.go.jp/
- 総務省「デジタル遺産に関する実態調査」(2023年) https://www.soumu.go.jp/
- Harbinja, E. (2017). “Post-mortem privacy 2.0: theory, law, and technology.” International Review of Law, Computers & Technology, 31(1).
- 宍戸常寿「情報技術の進展とプライバシー」『法学教室』(有斐閣)
本記事は2036年の架空の出来事を描いたフィクションです。登場する人物・組織・制度はすべて創作です。