【ニューヨーク=山崎奈緒】 2040年11月14日午後6時22分(現地時間)、国連総会はHuman Germline Genome Editing Prohibition Treaty(ヒト生殖細胞ゲノム編集禁止条約、以下HGEPT)を賛成134票、反対38票、棄権21票で採択した。
議場が静まり返った。
拍手はなかった。
■22年前の赤ちゃんが、条約を呼んだ
2018年11月、中国の研究者He Jiankui(賀建奎)は香港で行われた国際ヒトゲノム編集サミットで、衝撃的な発表を行った。CRISPR-Cas9技術を使ってHIV感染を防ぐためにCCR5遺伝子を編集した双子の女児——露娜(Lulu)と娜娜(Nana)——がすでに生まれている、と。
世界は凍りついた。
科学コミュニティが激震したのは、技術的な問題だけではなかった。インフォームド・コンセントの欠如、臨床試験プロセスの無視、そして何より、まだ存在していない人間——将来の子どもたち——への不可逆的な改変を、一研究者が単独で決定したという事実だった。
He Jiankuiは翌年、中国の法廷で有罪判決を受け、禁固3年の実刑に処された。
しかし双子は生き続けた。そして成長した。
■2040年の前夜——規制の22年間
2018年から2040年までの22年間、ヒト生殖細胞ゲノム編集をめぐる国際的な議論は、ある種の「精巧な膠着」を続けてきた。
技術は止まらなかった。
CRISPR-Cas9は第3世代、第4世代へと進化し、オフターゲット変異の発生率は劇的に低下した。2028年にはBase Editingの精度が理論上の限界に近づき、2033年にはPrime Editing 3.0が体細胞への臨床応用で規制当局の承認を得た。技術的には、2040年の時点でヒト生殖細胞編集は「安全に近い」段階まで来ていると主張する研究者も存在した。
一方、規制の網は緩かった。
2020年代前半に多くの国が独自のモラトリアムを設けたが、拘束力は限定的だった。ある国で禁じられた研究が、別の国で続いた。「ゲノムツーリズム」——規制の緩い国で生殖細胞編集の施術を受けるために渡航すること——が、富裕層の間で現実の問題として浮上した。
WHOが2026年に設立した「ヒトゲノム編集レジストリ」は、研究の透明性を確保しようとした。しかし登録は任意であり、抜け道だらけだった。
2037年、新たな事件が起きた。詳細は今も一部が非公開とされているが、東南アジアのある施設で、遺伝性疾患の除去を目的とした生殖細胞編集が複数例実施されていたことが内部告発によって明らかになった。施術を受けた女性たちは、自分の子どもに「何が行われたか」を完全には理解していなかったとされる。
この事件が、条約採択への最後の政治的加速剤となった。
■条約の中身——禁止の射程
HGEPTが禁止するのは、ヒトの生殖細胞(精子・卵子・受精卵)および胚のゲノムを改変し、その改変を次世代に継承させる目的で使用することだ。
条文は慎重に設計されている。
体細胞ゲノム編集——すでに生まれた個人の治療目的——は禁止の対象外だ。鎌状赤血球症やデュシェンヌ型筋ジストロフィーへの治療的介入は、条約の発効後も継続できる。
禁止されるのは、「遺伝するゲノム改変」に限る。
条約の第7条には「絶滅危機的な遺伝性疾患の排除を目的とした場合も例外としない」と明記されている。この文言をめぐって、採択前の最終交渉は最も激しい議論を呼んだ。
■賛成134——その内側にある分断
賛成国134は、数の上では圧倒的だ。
しかしその内側は均質ではなかった。
EU加盟国の多くは、予防原則と人間の尊厳の観点から支持した。「子どもは改良の対象ではない」という哲学的立場が、欧州の賛成票の基盤にある。
アフリカ諸国の多くも賛成した。しかし動機は異なる。「遺伝的強化技術は、富裕国のみが享受する。私たちが禁止を支持するのは、この技術が新しい植民地主義になることへの警戒からだ」——ウガンダ代表のこの発言は、採決後にSNS上で広く引用された。
宗教的保守派の国々は、受精卵の道徳的地位をめぐる独自の論理から賛成した。
そして日本。厚生労働省の代表は採択後、短い声明を読み上げた。「我が国は、技術の可能性と人間の尊厳の間に線引きをする必要性を認識する」。言葉は慎重で、何も断言していなかった。
■反対38——「条約は科学を殺す」
反対票を投じた38カ国の論理は、単純ではない。
その中核にいるのは、生命科学分野での国際競争力を戦略的優先事項と位置づける数カ国だ。代表的な反対国の代表団は採決後、こう述べた。「この条約は、治療可能な遺伝性疾患で生まれてくる子どもたちへの扉を、永久に閉ざす」。
反対派には、患者団体出身の活動家たちの支持もあった。特に重篤な遺伝性疾患を持つ子どもを育てる親たちの一部は、「禁止は私たちの子どもの命の選択肢を奪う」と主張した。彼らの声は、賛成派の道徳的確信に揺さぶりをかけた。
技術的な反論もある。「現在の編集技術の精度を前提にした禁止は、将来の完全に安全な技術にも適用されるのか」という問いは、条約の設計者たちが最後まで答えを出せなかった問いでもある。
■禁止条約の外側にある問い
条約は成立した。
しかし二人の女性——かつての露娜と娜娜——は、今年で22歳になる。彼女たちは公的な場に姿を現さない。中国政府の保護下に置かれていると報じられているが、詳細は確認できない。
彼女たちは条約を知っているだろうか。
自分の存在が、134カ国の外交官たちが22年間議論を続け、最終的に「禁止」という言葉を選ぶ根拠になったことを、どう感じているだろうか。
私は、問いに答えを出す立場にない。
条約を支持する立場から言えば、これは人間の尊厳を守るための必要な線引きだ。条約を批判する立場から言えば、これは特定の技術を恐怖から封印する、感情的な後退かもしれない。
どちらの言葉も、一部は正しく、一部は不完全だ。
■技術は待たない
採択から4日後、生命科学専門誌に一本の論文が掲載された。
内容は、ヒトの生殖細胞ではない。しかし技術的なアーキテクチャは、容易に転用できる性質のものだった。
禁止条約が施行される前に、その境界を揺さぶる技術が登場する。
これは歴史が繰り返してきたパターンだ。核兵器も、化学兵器も、禁止を宣言した後に別の形で問いが戻ってきた。
問いを封印することはできない。できるのは、どのような形で問いと向き合うかの枠組みを設計することだけだ。
その枠組みが十分かどうかを判断するのは、まだ生まれていない人々だ。
■条約採択の夜
議場を出た生命倫理学者の白川理恵子氏(63)は、廊下でこう語った。
「私は賛成票を支持した。しかし——」
彼女は少し間を置いた。
「しかし、どこかで『正解した』とは思えない。それだけははっきり言える」
廊下の蛍光灯が、彼女の顔に白い影を落とした。外では、採択を祝うグループと、沈黙で異議を示すグループが、同じ歩道の上に立っていた。
本記事は2040年を舞台とした架空のニュースです。登場する人物・機関・統計データはすべてフィクションです。Human Germline Genome Editing Prohibition Treaty(HGEPT)は架空の条約です。なお、He Jiankui(賀建奎)および2018年のゲノム編集双子に関する記述は実際の歴史的事実に基づいています。