【東京=村田奈緒】 2037年4月7日午前10時23分、東京・丸の内に開業した「みらい信託銀行データ信託部」の窓口に、最初の顧客が現れた。
長嶋透(42)。システムエンジニア。
手続きは47分かかった。その間、彼は三度、画面から目を離した。
■「個人情報保護」の終わりと、別の何かの始まり
2037年2月、日本の「個人データ信託法」が施行された。
制度の骨格はシンプルだ。個人は自らのデジタルデータを——SNS履歴、医療記録、購買行動、位置情報、金融取引——「信託資産」として認定された信託機関に預け入れることができる。信託機関はデータを管理・運用し、第三者企業がそれを利用する際には本人の事前承認と収益配分が義務付けられる。
法律の正式名称は「自己情報管理支援に関する法律」。それが「個人データ信託法」と呼ばれるのは、その仕組みが信託財産のモデルと構造的に同一だからだ。預け入れたデータの所有権は本人に残る。信託機関は運用の受託者に過ぎない。
「20年前から議論されていたことが、ようやく制度になった」と語るのは、情報法を専門とする東北共立大学の稲村敦子教授だ。「欧州のGDPR第20条が定めた『データポータビリティの権利』、Tim Berners-Leeが2018年に立ち上げたSolid Projectの思想、PIMS(Personal Information Management Systems)の設計哲学——それらが地下水脈として流れ続け、ようやく地上に出てきた」。
ただし稲村教授はこう付け加えた。「制度ができたからといって、問いが消えたわけではない」。
■「最初の利用者」が直面したもの
長嶋透は、早期申込みを決めた理由を問われてこう答えた。
「自分のデータが何に使われているか、ずっと気になっていた。どうせ使われるなら、自分が主語でありたかった」
手続きは三段階で構成される。
まず、分散型識別子(DID: Decentralized Identifier)による本人認証。長嶋は2035年に取得していたDIDを使用した。中央集権的な管理者を介さず、本人だけが秘密鍵を持つ証明体系だ。次いで、預け入れるデータカテゴリの選択。SNSアカウント17年分のアーカイブ、電子処方箋データ、クレジット決済履歴。最後に、利用目的ごとの承認ポリシーの設定——学術研究には開放、広告利用には年間4万円以上の収益分配が発生した場合のみ承認、など。
「選択肢が多すぎて、途中で判断を止めた」と長嶋は言う。「医療データを製薬会社に提供することへの抵抗感と、自分の病歴が新薬の開発に役立つかもしれないという感覚が、同時にある。どちらが正しいというより、どちらも本当なんだと思った」。
その逡巡が、47分の内訳だった。
■制度が引き継いだ思想の系譜
個人データ信託法の立法過程を遡ると、三つの思想的源流が見える。
一つ目は、EUのGDPR第20条が定めた「データポータビリティの権利」だ。2018年の施行以来、ユーザーは自らのデータを機械可読形式で受け取り、別のサービスへ移転する権利を持つとされた。しかしこの権利は長らく「形式的なもの」に留まった。データを受け取る権利はあっても、それを運用する枠組みが存在しなかった。
二つ目は、Tim Berners-LeeがW3Cと共に立ち上げたSolid Projectの構想だ。「個人データは個人のPod(データ保管庫)に置かれるべきであり、サービス事業者はそのPodにアクセスする許可を都度得る」という設計思想は、現在の信託モデルの骨格に影響を与えている。
三つ目は、PIMSの蓄積された実装知識だ。2010年代から世界各地で試みられた「個人データ管理システム」の実証実験——そのほとんどは普及しなかったが、失敗の記録が制度設計の反省材料となった。
「法律は思想の結晶ではなく、思想の妥協である」と稲村教授は言う。「この制度も、多くのことを棚上げにした上で成立している」。
■棚上げにされた問い
棚上げにされた問いの一つは、「データ格差」だ。
信託制度を利用できるのは、DIDを持ち、データリテラシーがあり、47分間の手続きに耐えられる人間だ。みらい信託銀行データ信託部のシニアマネージャー、菊地祥子氏(51)は率直に認める。「現時点では、申込者の9割以上が30代〜50代の高学歴・高所得層です。デジタルリテラシーが低い方、高齢者、非正規雇用の方への支援は、制度の外側にある」。
もう一つの問いは、「価値の非対称性」だ。
みらい信託銀行の初年度試算では、医療データと購買データを包括的に提供した場合の平均年間収益は「3万円から8万円程度」とされる。一方、製薬会社や広告プラットフォームがそのデータから得る利益は、桁が異なる場合がある。長嶋透は、この数字を見た後でこう言った。「分配率の問題というより、評価の非対称性の問題だと思う。私のデータの価値を決めているのは、まだ私じゃない」。
■「所有」することの重さ
法施行から2カ月で、みらい信託銀行の申込者数は2,340件に達した。業界団体の推計では、全国の信託認定機関への申込みを合計すると4万件を超えるとされるが、実際に「運用フェーズ」に移行したケースは申込者全体の32%に留まる。
残りの68%は、承認ポリシーの設定を「保留中」のままにしている。
「自分のデータを所有するということは、責任を負うということでもある」と稲村教授は言う。「これまでは事業者が勝手に使っていた。それには憤りもあったかもしれないが、考えなくてよいという便宜もあった。所有は自由の拡張であると同時に、決定の義務の付与でもある」。
保留中の68%は、何を迷っているのか。
その沈黙は、個人データ信託法が答えた問いではなく、制度が初めて可視化した問いを示しているのかもしれない。
■長嶋透の47分の後
手続きを終えた長嶋透は、みらい信託銀行を出た後、近くの公園のベンチに座った。
「自分のデータが、今、自分の手の中にある、という感覚があった」と彼は言う。「でも正直なところ、それが何を意味するのか、まだよくわからない。所有していると言えるのか。管理しているのか。それとも、単に選択の重さを引き受けたということなのか」。
彼のDIDデバイスには、今日の手続きが完了したことを示す通知が届いていた。
その先に何があるかは、まだ書かれていない。
■制度の「翌朝」
法施行から60日が経過した2037年4月下旬、参議院の情報政策小委員会は「個人データ信託法の見直し論点整理」の審議を開始した。論点は二つ——格差への対処と、収益分配モデルの見直しだ。
「制度は作った。しかし制度を誰のために作ったのかという問いが、すでに制度の内側から出てきている」と稲村教授は言う。「それは健全なことだと思う。少なくとも、問いが可視化されたということは、議論ができるということだから」。
問いが可視化される。
それは、解決の始まりなのか。それとも、これまで見えていなかっただけで、ずっとそこにあった問いに、ようやく輪郭が与えられただけなのか。
答えは、まだない。
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本記事は2037年を舞台とした架空のニュースです。登場する人物・機関・統計データはすべてフィクションです。