セントペテルブルクのパラドックスとスタートアップ資金調達──期待値がプラスでも、その賭けに乗るべきとは限らない

18世紀の数学者を悩ませた「期待値は無限大なのに、誰も大金を払わない」というセントペテルブルクのパラドックス。ダニエル・ベルヌーイが見出した『お金の量』と『お金がもたらす効用』の違いは、VCのべき乗則投資と創業者個人の資金調達判断のあいだに横たわる非対称を解き明かす。

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コインを投げ続けるゲーム

こういうゲームがある。

コインを表が出るまで投げ続ける。1回目で表が出れば2円もらえる。外れて2回目で表が出れば4円。3回目なら8円。n回目で初めて表が出れば、$2^n$円がもらえる。

このゲームの参加費は、いくらまでなら払っていいだろうか。

期待値を計算してみる。1回目で当たる確率は1/2で、賞金は2円。だから期待値への寄与は1円。2回目で当たる確率は1/4で、賞金は4円。寄与はやはり1円。3回目も1円。どこまで足しても、1回ごとの寄与は常に1円のままだ。

$$\frac{1}{2} \times 2 + \frac{1}{4} \times 4 + \frac{1}{8} \times 8 + \cdots = 1 + 1 + 1 + \cdots = \infty$$

期待値は無限大になる。

だとすれば、参加費が100万円でも、1億円でも、理論上は「払うべき」だ。期待値が有限のどんな金額よりも大きいのだから。

だが実際にこのゲームを目の前に出されたら、ほとんどの人は数百円、多くても数千円しか払おうとしない。


18世紀の数学者を悩ませた食い違い

この食い違いは「セントペテルブルクのパラドックス」と呼ばれる。1713年にニコラス・ベルヌーイが提起し、いとこのダニエル・ベルヌーイが1738年、ロシアのサンクトペテルブルク科学アカデミーの紀要に論文を発表して答えを示した(パラドックスの名前はここに由来する)。

ダニエル・ベルヌーイが見つけたのは、計算のどこにも誤りがないという事実だった。期待値は確かに無限大になる。それでも人がこのゲームに大金を払わないのは、計算ミスではなく、「お金の量」と「お金がもたらす価値」は同じものではないからだ、と彼は考えた。

手元に1000円しかない人にとっての1000円と、1億円持っている人にとっての1000円は、同じ1000円でも意味が違う。この「意味の違い」をダニエル・ベルヌーイは効用(utility)と呼び、お金が増えるほど、1円あたりがもたらす効用は逓減していく、と仮定した。

この仮定のもとで、賞金の金額ではなく賞金がもたらす効用を使って期待値を計算し直すと、答えは有限の値に収束する。「参加費はこのくらいまでなら払ってよい」という具体的な数字が、無限大ではなく出てくる。

これが、期待値最大化という一見もっとも合理的に見える意思決定の原則が、実は万能ではないことを示した最初期の事例だった。


べき乗則で当てるVCと、分散できない創業者

このパラドックスは、資金調達の現場で毎日のように形を変えて起きている。

ベンチャーキャピタルの投資判断は、期待値の論理そのものだ。単純化した例で考えるとわかりやすい——たとえば10社に投資して9社が失敗しても、1社が100倍になれば全体のリターンはプラスになる。これがべき乗則(power law)と呼ばれるVCの収益構造で、彼らは1件1件の勝率ではなく、ポートフォリオ全体の期待値を見ている。だから「成功確率は低いが当たれば大きい」賭けに、VCは合理的に乗る(もっとも、VC自身の口からこの説明を聞くことは少ない。彼らにとっては、説明するまでもない前提だからだ)。

創業者は違う。

創業者にとって、自分の会社は10分の1の賭けではない。ポートフォリオを組んでいるわけではなく、その1社に自分の時間、信用、時には個人保証まで賭けている。VCが同じ論理を10回繰り返して平均を取れるのに対し、創業者はその1回の結果をまるごと引き受ける。

同じ「期待値がプラスの賭け」を前にしても、賭ける側の立場によって、それが合理的な選択かどうかは変わる。VCにとっての正しい期待値計算が、創業者個人にとってもそのまま正しいとは限らない。これがセントペテルブルクのパラドックスが指摘した「量」と「効用」のズレと同じ構造だ。


連帯保証という、分散不可能なダウンサイド

この非対称は、日本の創業融資の慣行に置くと、輪郭がさらにくっきりする。

創業者が銀行から借り入れをする際、代表者個人が連帯保証を求められることがある。会社が返済できなくなれば、返済の負担は個人の資産・給与、場合によっては自宅にまで及ぶ。

期待値だけで見れば、借入をしてでも事業を伸ばした方がプラスになる場面は多い。売上見込み、成長率、資金効率——数字を並べれば「借りるべき」という結論は簡単に出る。

だが連帯保証を背負うということは、失敗した場合のダウンサイドが、事業の失敗だけでなく生活基盤の毀損にまで広がるということだ。手元資金が乏しい創業者にとって、その最後の何百万円が持つ効用は、同じ金額をすでに何度も動かしている投資家にとっての効用とはまるで違う。

「期待値はプラスだから借りるべきだ」という助言は、それを言う側が分散できる資本を持っているかどうかで、意味がまったく変わる。


期待値と、自分にとっての効用を分けて書く

セントペテルブルクのパラドックスは、期待値そのものを捨てろとは言っていない。期待値を手放せば、複数の選択肢を並べて比べる基準そのものが消える。

そうではなく、期待値の計算と、そのダウンサイドを実際に負えるかどうかの見積もりは、別の作業だということだ。

VCが期待値で語る言葉を、そのまま自分の資金調達判断に持ち込む前に、確かめておきたいことが一つある——このダウンサイドは、自分にとって分散可能かどうかだ。分散できないなら、これ一回で生活基盤ごと持っていかれる。

期待値の計算は、他人の頭の中でも自分の頭の中でも同じ数字になる。効用の計算は、賭ける本人にしかできない。


関連する思索


よくある質問

セントペテルブルクのパラドックスとは何ですか?

コインを表が出るまで投げ続け、n回目で初めて表が出たら $2^n$ 円がもらえるゲームについて、期待値を計算すると無限大になる。それにもかかわらず、実際に人がこのゲームに払ってよいと思う金額は数百円〜数千円程度にとどまる——この、計算上の期待値と現実の行動の食い違いを指す数理パラドックスだ。1713年にニコラス・ベルヌーイが提起し、1738年にいとこのダニエル・ベルヌーイが解いたことで知られる。

ダニエル・ベルヌーイはどう解決しましたか?

「お金の金額」と「お金がもたらす効用(価値の実感)」を分けて考えることで解決した。お金は増えるほど1円あたりの効用が逓減する(限界効用逓減)と仮定し、賞金がもたらす効用を使って期待値を計算し直すと、無限大だった値が有限の金額に収束する。

この話はスタートアップ投資とどう関係しますか?

ベンチャーキャピタルの投資判断は、ポートフォリオ全体の期待値(べき乗則リターン)で語られる。一方、創業者は自分の会社という1件に時間・信用・時には個人保証まで賭けており、失敗した場合のダウンサイドを分散できない。同じ「期待値がプラスの賭け」でも、それを判断する側が分散できる立場にいるかどうかで、合理的かどうかは変わる。

連帯保証がなぜこの話と結びつくのですか?

連帯保証を負った創業者にとって、事業が失敗した場合のダウンサイドは事業の失敗にとどまらない。生活基盤の毀損にまで広がる。手元資金が乏しい人にとっての最後の何百万円が持つ効用は、すでに資本を何度も動かしている投資家にとっての効用とは大きく違う。「期待値がプラスだから借りるべきだ」という助言は、それを言う側が実際に負っているダウンサイドの大きさによって、意味が変わる。

この話から何を持ち帰ればいいですか?

期待値の計算をやめる必要はない。ただし、期待値の計算と、「そのダウンサイドを実際に負えるかどうか」の見積もりは別の作業だ。資金調達や投資の意思決定の前に、この賭けのダウンサイドは自分にとって分散可能かを、期待値とは別に問うことだ。


参考文献

  • Bernoulli, D. (1738). “Specimen Theoriae Novae de Mensura Sortis.” Commentarii Academiae Scientiarum Imperialis Petropolitanae, 5, 175–192.(英訳: “Exposition of a New Theory on the Measurement of Risk,” Econometrica, 22(1), 1954, 23–36)
  • Bernoulli, N. — セントペテルブルクのゲームの原提起(1713年、ピエール・レモン・ド・モンモールとの書簡に記録)
  • Menger, K. (1934). “Das Unsicherheitsmoment in der Wertlehre.” Zeitschrift für Nationalökonomie, 5(4), 459–485. — 効用の有界性をめぐるパラドックスの拡張議論
  • Kahneman, D., & Tversky, A. (1979). “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk.” Econometrica, 47(2), 263–291.
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